2009年4月4日土曜日

バガヴァッド・ギーターを読む 1

中国と並びアジアの霊性のルーツというべきものはインドである。最近、ウパニシャッドの哲学、とくにその古典中の古典とも言うべきバガヴァッド・ギーターを読み大いに感ずるところがあった。これこそがアジアで最も深き霊性の始まりでは無かろうか。今日は、とくにその第2章の末尾のことばから始めよう。

2-69 万物の夜に於て自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚めるとき、それは見つつある聖者の夜である。

実にこちらの想像力を刺激する発言であるが、テキストの原意をすこしでもよく捉えるために英訳を見てみよう。

what is night for all beings is the time of awakening for the self-controlled; and the time of awakening for all beings is night for the introspective sage.

2-70 海に水が流れ込むとき、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様にあらゆる欲望が彼の中にはいるが、彼は寂静に達する。欲望を求めるものはそれに達しない。

A person who is not disturbed by the incessant flow of desires--that enter like rivers into the ocean which is ever being filled but is always still--can alone achieve peace, and not the man who strives to satisfy such desires.

2-71 すべての欲望を捨て、願望無く「私の物」という思いなく、我執無く行動すれば、その人は寂静に達する。

A person who has given up all desires for sense gratification, who lives free from desires, who has given up all sense of proprietorship and is devoid of false ego--he alone ca attain real peace.

2-72 アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時に於いても、この境地にあれば、ブラフマンに於ける涅槃に達する。

That is the way of the spiritual and godly life, after attaining which a man is not bewildered. Being so situated, even at the hour of death, one can enter into the kingdom of God.

2-72 の英訳は意訳に過ぎるようである。
「神の王国」というのはキリスト教的な概念であるが、もとのサンスクリット語は
brahma-nirvANam Rcchati
「梵(ブラフマン)の涅槃に達する」というのが直訳である。ここでいうニルバーナとは、梵我一如というヴェーダンタ哲学の奥義を、仏教的な表現を援用して述べたと観るのが妥当であろう。涅槃もまたヴェーダンタの哲学からみれば梵我一如をあらわすひとつの表現となるのである。一切の地上的な欲望を放下し、それから自由となったときに涅槃を得るというのは仏教的な概念でもある。

ここで言う涅槃を「神の王国」と対比する場合、次の点が留意されるべきである。

(1)神の国に入る、という概念とは異なる点
「梵我一如の涅槃」には、キリスト教やイスラム教の如き「終末に於ける審判」の観念はない。つまり善なる超越神が悪人を裁くという発想はなく、救済は倫理的道徳的な次元の問題ではない。いうなれば梵我一如の涅槃とは善悪の彼岸の事柄である。

(2)神の国にはいる、という概念と共通する点
この世ですでに神の国が開始されており、永遠の生命も信ずるものには、既に地上で開始され、救済が保証されているのと同じように、梵我一如の涅槃もまた、この世で意味を持つ事柄である。ヴァガボッドギータは地上で生きる人間が世俗の義務を放棄せずにそれを生き抜くことを求めているが、それは世俗にあって神の栄光を表すというキリスト教徒の実践的な倫理と照応する物があるであろう。

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