快晴。復活祭である。八木誠一氏の「イエスの宗教」、氏の最近の著作の中では私が最も共感する物であった。昨年の東西宗教交流学会で、「自分はイエスの弟子である」と述べておられたことを思い出した。一昨日は聖木曜日であったが、教会では洗足という儀式を古くから行われていた。受難を前にしてイエスが弟子達の足を洗うという故事にのっとったものである。
「弟子は師に勝らず」ということばがヨハネ福音書に出てくる。その師が、弟子の足を洗うことによって相互に奉仕すべきことを教えたのであるから、およそイエスの弟子たるものは、師に倣って、そうすべきである。そうでなければイエスの弟子とは言えぬだろうというのがこの箇所の趣旨であろう。
一人称単数の「ハヤー命題」はヨハネ福音書でも多用される。これは日本語訳で「私はある」とか「私がそれである」とか訳され、英語でも、I am he とか I am who I am のように訳されている箇所である。
たとえば、
ヨハネ 13-19
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。(新共同訳)
この一人称単数形現在は、「私が(神の子)キリストである」と訳せば内容的にわかりやすが、そう訳すと、なぜ、エゴー エイミ という表現をイエスがされたかが見えなくなるであろう。「私はハヤーするものである」とは不完了形であるが、神の永遠の現在に於ける活動は、世界においては将来からの働きかけとなるーこれこそがハヤトロギアの論理である。
出エジプト記の神名の啓示、「私はある」という方が、私をエジプト人のもとに遣わした。
ここで登場する二つの「私」の関係は何か?
Thy will be done in earth as it is in heaven. (欽定訳聖書)
みこころの天に行われる如く地にもおこなわれんことを。
That is why I told you that you will die in your sins. And you will die in your sins if you do not believe that "I Am Who I Am'."
8-24 eipon oun umin oti apoqaneisqe en tais amartiais umwn ean mh pisteuqhte oti ego eimi
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