エコ・ソフィア(共生学)とは、「自然と共に生きる智」だけでなく、「他者(他の文化、他の国家、他の宗教を含む)と共に、他者のために生きる智」の探求を意味しているが、私は、生態学で言う共生(共棲=きょうせい)と区別して、「共生(きょうしょう)学」と呼ぶことを提案している。 仏教では生死を「しょうじ」と読み、衆生を「しゅじょう」と読むのが習わしであるが、私は、とくに「共生」を「衆生と共に生きる」という意味を込めたかったのである。それと同時に、上智大学の建学の理念がcura personalis(一人一人の人格を大切に)というものであり、それを英語で men and women for others, with others とも表現しているので、「ペルソナ」への配慮を第一義的に考えるカトリック大学の教育理念との統合を意図したものであった。
ここで「ペルソナ」という言葉を、私は、存在するために他者を必要としないという意味で自己の内に閉ざされた実体概念としてではなく、自己を形成するために他者を本質的に必要とし、また他者の自己形成に対して貢献しうるという意味で、関係性の場において成立する社会的存在として捉えている。このようなペルソナの概念は、かならずしも意識と理性を備えた人間的個体(個人)にだけ限定されるわけでなく、ホワイトヘッド哲学の用語を遣うならば、主体性をもつあらゆる活動的契機のおりなす社会存在(Society)に一般化されるべきものである。仏教文化圏には、一切のいきとしいけるものを表す「衆生」という言葉があるが、この「衆生」という言葉によって、人間的な「人格」に限定されぬペルソナを表現することによって、他者(他の人格)の概念を拡大し、人間以外の「衆生」をも他者として、他者のために、他者と共に生きる「共生」の智を探求することが、「エコ・ソフィア(共生学)」の課題である。したがって、衆生(=他のペルソナ)との共生(きょうしょう)とは、胎児と母親の関係のごとき自他未分離の生物学的共生(きょうせい=symbiosis)ではなく、独立の人格として誕生した人間のもつ自覚的な関係である。
共生の哲学的基礎―「有機体の哲学」より学ぶ
上で言及したように、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」の根本概念のひとつにConcrescenceがあるが、その中国語訳がまさに「共生(gong4 sheng1)」であることを指摘しておきたい。日本と同じく「合生(ge2 sheng1)」という訳語も用いられるが、これは「衆縁合生(zhong4 yuan2 e2 sheng1」すなわち「もろもろの縁が合わさって生じる」という意味であるから、まさに仏教的な縁起(pratityasamutpada)の意にほかならない。すなわち、concrescenceという言葉は、「共に生ずる」ということを意味するラテン語 concrescoからホワイトヘッドが造語した英語であったが、そういう概念はヨーロッパの伝統的な哲学には無かったものであり、自己が生きること、すなわち自己が自己形成をおこなうためには他者の存在が必要不可欠であること、我々はみな相互に「生かされて生きる」存在であることを表す基本的な概念なのである。
2008年の時点で中国には既に17の大学にホワイトヘッド哲学の研究中心があるということを聞いたが、元来、中国は易経や中国仏教にまでさかのぼる2000年以上の有機体的自然観の伝統があることをおもえば、環境汚染による生態学的危機が近代化の弊害として深刻なものとなりつつある現代中国においてホワイトヘッド研究が、中国本来の伝統的な自然観の価値を再発見する上での媒介の役割を果たしているということができるだろう。
Concrescence が縁起という仏教概念に対応すると言うことは、2009年1月にインドのクライスト大学で行われた第7回国際ホワイトヘッド学会の基調講演で米国のプロセス神学者であるジョン・カブ教授があらためて強調した点であった。龍樹に由れば、縁起・無自性・空性が大乗仏教の哲学の根幹を為すものであるが、カブ教授は武田先生と共著で、龍樹とホワイトヘッドとの比較研究の嚆矢とも言うべき論文、”Mosa-Dharma and Prehension: Nagarjuna and Whitehead” (Process studies Vol.4.Number1/1974)を書かれている。武田先生には、そのほかにも、「大乗仏教とホワイトヘッド哲学-特に中観と瑜伽行唯識の基本的問題に関して」(プロセス思想、創刊号1985)という論文がある。 そこでは中論の徹底した否定の議論をふまえた上で登場する瑜伽行唯識の「一切法を有として建立する立場」がホワイトヘッドの存在論と対比されている。そこでは「ナーガルジュナの把えた八不中道たる「不生不滅の縁起」とは「空性の顕了」としての相互に依存して生成変化する現実世界の真相を指し示す表現であった。」という武田先生のダイナミックな空性理解が語られている。すなわち、空性は、ホワイトヘッドが「究極的なるものの範疇(the Category of the Ultimate)」とした創造性(creativity)とおなじく、世界の静的な存在ではなく動的な「識転変」に関係づけられるのである。
このように空性のもつダイナミズムに着眼することは、涅槃に入ることをよしとせずに、「衆生と共に苦しみの世で生きる」ことをあえて引き受ける大乗仏教のいわゆる菩薩像や、「涅槃に住することなき涅槃」こそ真の涅槃とする立場にふさわしいものであるが、そういう大乗仏教の根本的な考え方をさらにtんかいさせることこそが現代世界における共生の思想の根幹となるべきであろう。
2009年5月20日水曜日
2009年5月3日日曜日
意志と表象としての世界」第三巻を再読。
第一巻で「世界は表象である」と規定し、第二巻で、「世界は意志である」と規定したショーペンハウアーは、第三巻において、プラトンのイデア論とカントの言う物自体の議論を独自の仕方で統合することを試みる。イデア論は彼の藝術論と深く関わるので、私自身、このあたりがもっとも興味深いところなのだが、このたび再読してみて、以前気が付かなかったこと、些細なことにみえてその実、重大な意味を秘めている事柄に気づいた。
第一巻、第一章では著者は「世界は私の表象である」(Die Welt ist meine Vorstellung)と言っていた。表象(Vorstellung)という名詞につけられた「私の」という形容詞が、第三巻第30章では欠落し、単に「第一巻で我々は世界を単なる表象として、主観に対する客観として展示した」と述べているだけなのである。「世界は私の表象である」とか、「世界は私の意志である」いう一人称表現には、ある独特の強さがあり、それに比べると「世界を、主観に対する客観として展示した」という三人称表現は、ずっと常識的であって迫力に欠ける。著者は、「純粋理性批判」に関しては独我論的ともみえる第一版をとり、観念論論駁を付した第二版を後退と見るカント解釈を打ち出したのであるが、その著者自身が、第一巻の強い表現から、第三巻の弱く常識的な表現に後退したように見えるのは残念である。
「世界は私の表象である」は、あきらかに独我論的な表現であり、「私の」表象を離れた世界自体の存在を否定する意味合いを含む。これに対して、「世界は主観に対する客観である」という表現では、私という主観以外に、他我の存在も認められている。すなわち複数の主観が有るということが認められており、私にとって表象として立ち現れなくとも、私とは独立にある他の主観に対する客観として現象するものを世界は含むこととなる。その場合には、どの主観も、「世界は私の表象である」といって世界を私物化することは許されないが、「世界は表象である、すなわち、或る主観に対する客観の総体である」ということは許されるであろう。いってみれはこれは弱められた主観主義であり、常識とさほど離れたものではない。常識は主客が常に相関していることなら容易に認めるであろうから。
「世界は私の表象である」「世界は私の意志である」というときの「私」は、「公」に対する「私」ではなく、ウパニシャッドの哲学で言うところの「アートマン」すなわち「自己」であると解さなければなるまい。私=自我よりもはるかに深い自己の存在。世界や物自体の「私物化」ではなく、「私」と「公」の区分を越えた自己自身の自己に於ける自覚という文脈で、ショーペンハウアーの第一テーゼは捉えられるべきである。
もちろん、ショーペンハウアーの言う「私」をそういう方向に解釈することについては、様々な異論が立てられ得るであろう。そのような「自己」は、たとえば一なる者として存在するのか、多なるものとして存在するのか。それとも一多のごとき現象にのみ当てはまる範疇を、かかる「自己」に妥当させることが出来るかどうかも問題としなければならない。なによりも、かかる「自己」が自己に対して自己において、「世界」として、すなわち「私の表象」として、あるいは「私の意志」として「現象」するのか、それを「現象に即して」記述することが求められるであろう。
「世界は私の表象である」あるいは「世界は私の意志である」この二つの言明は、誰もがいうことの出来る命題であると共に、決して三人称に置き換えられぬ独自性を表現する命題でなければなるまい。この「私」を、だれか特定の個人の名前で置き換えることは出来ない。いや、それのかわりに、三人称で語らえるような「神」で置き換えることも出来ないのである。かつてバークリーが、「存在するとは知覚されてあることである(esse est percipi)」という主観的観念論のテーゼを打ち出したときに、私にも誰にも知覚されていない事物の存在を保証するために、無限なる精神としての「神」がつねに知覚しているというかたちで、特定の主観に知覚されていない事物の客観的存在を保証したが、私ならば、「世界は神の表象である」も「世界は神の意志である」もともに偽であると言うだろう。客観化して語られるような神などは、ここでいう「私」の重みに耐えきれないであろうから。
ショーペンハウアーは第3巻34章で、バイロン卿の詩
「山も波も空も、私と私の心の一部ではないだろうか。ちょうど私がそれらの一部であるように」
またヴェーダのウパニシャッドから
「われこそこれらすべての被造物なり。われをよそにしていかなるものも或ることなし」
を引用している。
第一巻、第一章では著者は「世界は私の表象である」(Die Welt ist meine Vorstellung)と言っていた。表象(Vorstellung)という名詞につけられた「私の」という形容詞が、第三巻第30章では欠落し、単に「第一巻で我々は世界を単なる表象として、主観に対する客観として展示した」と述べているだけなのである。「世界は私の表象である」とか、「世界は私の意志である」いう一人称表現には、ある独特の強さがあり、それに比べると「世界を、主観に対する客観として展示した」という三人称表現は、ずっと常識的であって迫力に欠ける。著者は、「純粋理性批判」に関しては独我論的ともみえる第一版をとり、観念論論駁を付した第二版を後退と見るカント解釈を打ち出したのであるが、その著者自身が、第一巻の強い表現から、第三巻の弱く常識的な表現に後退したように見えるのは残念である。
「世界は私の表象である」は、あきらかに独我論的な表現であり、「私の」表象を離れた世界自体の存在を否定する意味合いを含む。これに対して、「世界は主観に対する客観である」という表現では、私という主観以外に、他我の存在も認められている。すなわち複数の主観が有るということが認められており、私にとって表象として立ち現れなくとも、私とは独立にある他の主観に対する客観として現象するものを世界は含むこととなる。その場合には、どの主観も、「世界は私の表象である」といって世界を私物化することは許されないが、「世界は表象である、すなわち、或る主観に対する客観の総体である」ということは許されるであろう。いってみれはこれは弱められた主観主義であり、常識とさほど離れたものではない。常識は主客が常に相関していることなら容易に認めるであろうから。
「世界は私の表象である」「世界は私の意志である」というときの「私」は、「公」に対する「私」ではなく、ウパニシャッドの哲学で言うところの「アートマン」すなわち「自己」であると解さなければなるまい。私=自我よりもはるかに深い自己の存在。世界や物自体の「私物化」ではなく、「私」と「公」の区分を越えた自己自身の自己に於ける自覚という文脈で、ショーペンハウアーの第一テーゼは捉えられるべきである。
もちろん、ショーペンハウアーの言う「私」をそういう方向に解釈することについては、様々な異論が立てられ得るであろう。そのような「自己」は、たとえば一なる者として存在するのか、多なるものとして存在するのか。それとも一多のごとき現象にのみ当てはまる範疇を、かかる「自己」に妥当させることが出来るかどうかも問題としなければならない。なによりも、かかる「自己」が自己に対して自己において、「世界」として、すなわち「私の表象」として、あるいは「私の意志」として「現象」するのか、それを「現象に即して」記述することが求められるであろう。
「世界は私の表象である」あるいは「世界は私の意志である」この二つの言明は、誰もがいうことの出来る命題であると共に、決して三人称に置き換えられぬ独自性を表現する命題でなければなるまい。この「私」を、だれか特定の個人の名前で置き換えることは出来ない。いや、それのかわりに、三人称で語らえるような「神」で置き換えることも出来ないのである。かつてバークリーが、「存在するとは知覚されてあることである(esse est percipi)」という主観的観念論のテーゼを打ち出したときに、私にも誰にも知覚されていない事物の存在を保証するために、無限なる精神としての「神」がつねに知覚しているというかたちで、特定の主観に知覚されていない事物の客観的存在を保証したが、私ならば、「世界は神の表象である」も「世界は神の意志である」もともに偽であると言うだろう。客観化して語られるような神などは、ここでいう「私」の重みに耐えきれないであろうから。
ショーペンハウアーは第3巻34章で、バイロン卿の詩
「山も波も空も、私と私の心の一部ではないだろうか。ちょうど私がそれらの一部であるように」
またヴェーダのウパニシャッドから
「われこそこれらすべての被造物なり。われをよそにしていかなるものも或ることなし」
を引用している。
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