2009年1月1日木曜日

生命と環境の哲学

生命と環境の哲学
 
1987年にアメリカのバークりーで開催された、「仏教徒とキリスト教徒との対話」を主題とする国際会議の主題は、「地球の癒し(Global healing)」であった。 この国際会議において、米国のプロセス神学者の J.Cobb は、現代において仏教とキリスト教が共通に取り組まねばならない緊急の課題として地球の生態学的危機があることを指摘して、次のように述べた。

宗教的な観点から死について語る場合、従来は、ほとんど個人的な次元にとどまっていて、私という個人の死、あるいは、死後の世界はどのようなものであるかという観点から、この問題が扱われた。今日では、我々は、地球全体に死が広がりつつあるという状況に直面している。このことは、もはや、様々な宗教的伝統に属する人間にとって、避けられない問題となっている。 

地球全体に「死」が拡がりつつあるということは、あくまでも人間的な比喩、もしくは、神話的象徴によって語られていることであって、科学的事実の客観的な記述ではない言う意見があるかもしれない。普通に我々が理解している自然科学には「病」とか、「死」という語は登場しない。もし、自然科学の最も基底的な言語に、生死(生成と消滅)、価値、目的というような範疇が存在しないならば、自然科学的な事実を根拠として、「病める」地球の「癒し」について語ることはできないであろう。健康であったり、病気であったりするのは、あくまでも人間についていえるのであって、他の生物種や無生物について言うのは無理であるとも思われよう。
 しかしながら、「健康」や「病」を人間にのみあてはまる特殊な述語と考えたり、自然そのものを人間の外部に対象化された単なる物質の運動に還元するような自然観そのものが、現在の生態学的危機と密接に結びついているとしたらどうであろうか。
  宗教が人間の個人的な内面的生の問題のみに関わり、科学が自然を外部から操作可能な物質の機械論的システムに還元するとき、自然と人間の関わりを問う「環境問題」を、「科学的にかつ宗教的に」語るという道はほとんど閉ざされていたと言ってよい。
  筆者がこの論考の中でとりあげるのは、地球の生態学的危機を「科学的かつ宗教的に」考察するという課題である。単に科学の立場から、あるいは、単に宗教の立場から、考察するというのではなく、科学と宗教とが、そこにおいては不可分であるような場所で、地球に迫りくる「死」の問題を考察しようというのである。それは、多くの人々が単なる科学の問題として、あるいはヒューマニズムの立場から論じてきた環境問題を宗教的視点から検討を加えることにほかならない。キリスト教の神学の用語で言い換えるならば、この問題は、現代の自然神学の緊急の課題の一つであり、仏教の立場から言えば、地球の生態学的危機の問題を、原始仏教の古き智恵―四聖諦-による「苦」の克服という視点から考察することに他ならない。
  

地球の生態学的危機ecological crisisという問題を、「科学的にかつ宗教的に」考察するためには、
少なくとも次の四つの項目が必要である。

(1)近代文明の疾患に他ならぬ地球の生態学的危機の事実を正しく認識する事
(2)近代文明の疾患の真の原因が何であるかを根底から自覚する事
(3)生態学的危機を生まぬ文明の理念を改めて正しく定義する事
(4)生態学的危機を克服するための実践の具体的指針を与える事

  この四項目は、原始仏教の教義の一つであった四聖諦に学んで、その見地から現代の環境問題を見直したものである。
  四聖諦の原点は、自己を含む世界の全体が苦しみの中にあることをあるがままに正しく認識すること(dukkha=苦諦)である。苦を克服することは、苦の現実を正しく認識することなくしてはあり得ない。苦諦とは悲観主義的なイデオロギーを意味するのではない。それは、我々自身に深く関わりを持った事柄であると同時に、経験に基づきそこから帰納された客観的事実でもあり、この事実を率直に認め、そこからものを考えていくことが、「苦からの癒し」を実現するためには必要不可欠であることを意味しているのである。
 さて、原始仏教の救済論の第二項目は、苦の原因を認識すること(samudaya=集諦)にあった。我々が、その中で呻吟している苦しみの原因は一つではなく、多くの原因が集積して生じたものである。この原因を認識せずに、人間が神々に安直に寄り頼み、外部からの奇跡的救済を願望することによって、癒されると言うことは、本来はあり得ない。原始仏教においては、人間が自己自身の外部にたてた神々にたいする信仰は究極的には、人間を救済するものではないから、神々もまたその支配下にある因果の理法を認識することが第一義的な重要性を持つのである。
 しかし、言うまでもなく、ここで求められている仏教的な智は、対象認識に限定された科学的な理性ではない。近代人にとっては、理性とは人間の心の機能の一つであるに過ぎず、人間の感情や意志とは独立であり、それらの「非合理的な」機能とは区別されている。対象を分析し支配する分析的理性は、自己と他者を差別する差別知であると同時に、外部から提示された目的を実現する手段にもっぱらかかわる手段知に、自らを限定している。
 これに対して、「智体悲用」という言葉に要約される仏教的な智は、情意的活動のすべてを包摂しそれらを統一する目的知であると同時に、依存的な生起(pratitya samutpada=縁起)の関係にもとづく自我の非実体的性格を正しく認識する無差別知という基本的な性格を持っている。科学的な理性は、手段知としていかに優れていても、仏教的な智の基準からすれば、目的価値の選択に対しても、また自己と他者の依存関係に対しても、甚だしき無智と共存しうるのである。嘗ては、西欧においても、ソクラテスとプラトンに根ざす伝統の中では、哲学的な理性は、人間の生にたいし単なる手段知以上のものを意味していた。「善を善として認識して、それを行わないことは不可能である」とは、ソクラテスの言葉であるが、その様な「善」の認識は、人間の理性を世俗の次元でのみ捉え、無統制な欲求に奉仕する道具と見る立場からは閉ざされてしまっている。
 

英国の緑の党のスポークスマンであるサラ・パーキンは、地球の生態学的危機の事実が認識されても人々がそれに応じて適切な対策を講じることができないでいる現状に警告を発して次のように述べている。

我々の、鈍感さ、沈黙、そして、怒りの欠如は、我々が、自己自身の絶滅をつぶさに見届ける唯一の生物種になるかもしれないことを意味している。そのときに小さな墓碑銘が刻まれるだろう。「人類は絶滅の日が近づいているのを知っていた。しかし、それを防ぐだけの知恵を持ち合わせていなかった」と。

 ここで、我々が考えるべきことは、絶滅の日が近づいてくるのを「知って」いながら、それに対して、適切に対処することができないと言う人間の問題である。ここで、無明(avidya)の長き夜に沈んでいるのは人類の全体である。一人一人の人間のではなくて、いわば人類全体の無明ということが問題となっているのである。この無明が高度に発達した科学技術社会における極度に専門化した知と隣り合わせになっていることが、我々の時代の特徴である。地球の生態学的危機の事実を正しく認識し、その原因がほかでもなく、我々自身にあること、我々自身の無明にあることを自覚することが、この危機を克服するための第一歩である。ここで、「自覚」というもともと仏教に由来する用語を使ったが、その理由は、生態学的危機の問題は、我々自身のことを棚上げして、客観的に操作可能な対象世界の問題として、政治的ないし技術的な手段のみによって解決できるような問題ではないからである。 
 地球の生態学的危機については、近年その危険性がようやく自覚され、環境と開発に関する国際会議が随所で開催され、様々な行動計画(agenda)や国際協定が結ばれてはいる。 しかしながら、これらの行動計画を実行する上で、大きな妨げとなっているのが、「近代化」と「開発」を無条件で善と見なす国家のエゴイズムである。熱心に環境保全を唱えているのが主として先進諸国の非政府組織であり、この運動が現在国境の壁を越えて全地球規模で広がりつつあるとはいえ、国際政治を動かしているものは、依然として国家のエゴイズムである。そのかぎりではすでに近代化を達成し豊かな消費生活を享受している先進諸国と、国民総生産の増加によって先進諸国と同じ生活水準を達成することを国是とする開発途上国との間には、同じ環境保護の問題について協議するとしても、利害の対立を避けることはできない。環境問題の解決は、世界に於ける資源利用の不平等と所得格差をいかに是正するかという南北問題と切り離して考えることはできないのである。ここで、限られた地球上の資源をいかに再利用可能なかたちで維持し、如何にして「永続的な開発(sustainable development)」を可能にする経済体制を整備するかという地球経済学ないし家政学(earth economics)の問題を考察してみよう。
 地球上で利用可能な物質的資源とエネルギーの総量が一定であることが自覚されると、配分の公正さ(justice)の問題が倫理的かつ政治的課題として浮上してくるのは当然であろう。ここで、先進諸国の国民が享受しているような資源の浪費を前提とする生活様式は、はたして、地球が支えきれるような種類のものであるかと問うことは重要である。
 環境保護の運動は、国境を越えた拡がりを持つと言ったが、それは、国家の自己中心主義を克服する運動が、各地域で草の根的に出現してきたことを意味している。近代は何にもましてナショナリズムの時代であるが、環境問題は、我々に国家の壁を越えることをまず要求するのである。それはまた、少数の専門家の立案した経済政策にたよることによっても解決しないであろう。
 エコロジー的な経済学とは、いわば、我々の地球を一つの家(オイコス)として、その家の法(ノモス)と秩序を考察することであるから、国民経済学(national economics)の枠組みを越えることが要求されるのである。それは、すべての人間の問題であり、それぞれの人間が生活している具体的な場所、個々の家庭と地域の共同体の問題である。
 Think globally, and act locally !
とはエコロジー運動のスローガンである。現代は、家庭の日常生活の中で消費されたフロンガスが大気中のオゾン層を破壊し、将来生まれてくる世代に対して、取り返しのつかぬ危害を知らずに加えてきた時代であり、身近な一つ一つの行為が連係して、思いも寄らぬ結果を生む時代である。先進諸国の国民が当然視してきた行為が、実は、開発途上国の資源の乱獲によって地球の生態系に被害を与えているという事例はきわめて多いのである。  我々は、「地球が病んでいるときは、そこにすむ我々自身もまた病んでいる」という言葉をつけ加えねばならぬだろう。
  近年、ヨーロッパや米国の環境運動家の間で、「深いエコロジー(deep ecology)」という言葉がよく使われるようになった。それは、ヨーロッパの近代文明を支えてきたコスモロジーと人間中心主義的な価値観に対して根本的な反省を求める運動となっている。「深い」という言葉は、当然従来の環境保護運動の基本的な考え方を浅薄なものと見る価値判断を表している。それは、地球の生態学的危機の問題を根本的に人間自身の生き方の転回させ、従来とは違った生活様式(alternative life style)を広めることを意図している。それは、まず、環境倫理ないしエコロジーの倫理学(ecoethics)の問題として登場した。
 エコロジーの倫理学という考え方は、西欧の文明の伝統の中では、比較的に新しいものである。例えば、米国の環境運動の思想的原点とも言うべきA.レオポルドの「土地倫理(land ethics)」が構想されたのは1940年代の後半である。この倫理の出発点は、「大地の有機体としての複雑さ」であり、「山の身になって考える(thinking like a mountain)」ことであった。レオポルドの著作を読むと、彼が次第に人間中心的な功利主義のものの見方から、次第に生命中心的な平等主義の立場に移行していったことがよくわかる。 従来の環境保護の運動は、自然資源を賢明にかつ効率的に利用することをめざし、人間の長期的な利用のために、自然を制御し、人間の物質的利益に役立てることを意図していた。これに対して、レオポルドが提示し、後に急進的な環境保護運動の指導理念となったのは、人間以外の自然物もまた、生命を持つ有機体にほかならぬ大地の一部であって、それぞれが生きるための固有の権利を持つという考え方である。生態学的平等主義(ecological egalitarianism)ともいうべきこの新しい倫理思想は、後にノルウエーの環境哲学者の A.ネス によって、「あらゆる生命の諸形態は、その潜在的可能性を開花させる権利を平等に持つこと(the equal right to live and blossam)を原理として認める」立場として定式化された。 これは、単なるロマン主義的な自然観と見るべきではない。 レオポルドは野生動物の保護を法的に確立するという文脈でこの考え方を提示しており、人間と自然の関係を倫理と法の問題として捉え直すことを意味しているのである。キリスト教の伝統に属するこれらの環境学者の考えの背後には、人類が新たに自然との間に契約を結ぶべきだと言う考え方がある。フランスの環境哲学者の M.セールの提言によれば、生態学的な平等主義は、「人間が従来の自然を排除する社会契約を破棄し、共生と相互性を旨とする自然契約(le contrat naturel)を結ぶ」ことを要請するのである。それは、人間だけが、個人又は集団で権利主体になりうると前提している法的権利の概念の見直しを要求し、従来の倫理学には欠如していた新しい問題を提起している。
  地球の生態学的危機の問題は、空間的には、人間がそこにおいて生きている地球を生きた有機体として捉え、そこで共に生きている様々な生命の諸形態に対して、その潜在的可能性を開花させる権利を認める考え方を呼び起こした。これに対して、時間的な問題、即ち、我々が過去の世代、および未来の世代と「共にある」ことを強調するのが、ドイツの哲学者ハンス・ヨーナスによって示された世代間倫理である。 産業廃棄物や、核廃棄物による環境汚染が影響するのは、今生きている世代である以上に、将来の世代である。それ故に、世代間倫理は、現代の世代の為す決断/選択は、過去の世代の価値ある遺産を継承し保護すると共に、未来の世代の創造的生活と多様な価値の選択の可能性を保証し維持する責任を負うべきことを強調するのである。
 環境倫理にせよ、世代間倫理にせよ、そこでは、人間と自然との間の連帯性、現在の世代と過去および未来の世代のすべての生命ある存在のあいだの連帯性が問題となっている。それは、環境問題を専門家の解決すべき技術的問題と考えずに、我々自身の生き方の問題として捉え、同時に、人間の宇宙に於ける位置について、近代のヒューマニズムとは違った考え方をするのが特色である。
 深い意味でのエコロジーは、近代人の自然観や価値観の前提そのものを問う哲学的批判であると同時に、ポスト近代科学による自然認識の深化にふさわしい宇宙論を構築する積極的な試みでもある。それは自然環境と技術環境と人間の実践活動の三領域の調和と均衡に関する智である。 
以下で、この智の探求の三つの側面、すなわち、自然学(eco-physics)、倫理学(eco-ethics)、技術論(eco-technology)、の順に議論しよう。このようなエコロジーの智の探求(eco-philosophy)は、近代文明の基本的な前提である人間中心主義の立場を越えることによって宗教哲学の根本問題に関わるが故に、最終的には、エコロジーの神学(eco-theology)という形態をとるだろう。

(A)エコロジーの自然学(eco-physics)

(1)近代自然科学批判:科学的智の危機と生活世界への帰還(Husserl)。純粋経験と場所的自覚の論
理(西田)。機械論的自然観の根底的批判と有機体的自然観の提示(Whitehead)。
(2)具体的な現実存在(actual entity)の代替不可能な個体性(individuality)と多様性(diversity)をあるがままに捉え、それを科学の抽象的な普遍概念で置き換えぬこと(the fallacy of misplaced concreteness の克服)
(3)人間自身を含む自然の連帯性(solidarity)と共在性(togetherness)を自覚する。 
どの個体も孤立して存在することはなく他のすべての存在とともにある。自然界の様々な生命の諸形態は「共に生きている(symbiosis)」。さらに一般的に、個々の現実存在は、他のすべての存在を含んで現成する事によって、その個体としての独自の価値を実現する(ホワイトヘッドの言う相対性/相依性の原理)。
(4)人間中心主義からの展開:自然は人間に対する直接の効用を離れて独自の内在的価値を持つ。どの現実存在もそれぞれが宇宙の中心であって、どの個体もどの種も特権的な存在ではない。あらゆる現実存在は原理的に対等である。人間という種のエゴイズムは、それ故に存在論的な錯誤に基づく。この錯誤から解放されたときに初めて人間は、人間の独自の価値を正しく認識することができよう。

(B)エコロジーの倫理学(eco-ethics)

(1)生命圏の平等の原理:あらゆる生命の諸形態は、その潜在的可能性を開花させる権利を平等に持つこと(the equal right to live and blossam)を原理として認める。
(cf. Arne Naess の deep ecology)
(2)過去と未来の世代に対する責任:現代の世代の為す決断/選択は、過去の世代の価値ある遺産を継承し保護すると共に、未来の世代の創造的生活と多様な価値の選択の可能性を保証し維持する責任を負う。(cf. Hans Jonas の世代間倫理)
(3)地球経済(earth economy)の原理:環境の生態学的危機は国境を越えた問題であるが故に経済学の諸問題は地球という一つの家(オイコス)の経済法則(ノモス)を探求する地球経済学(earth economics) という大きな枠組みの中で考察しなければならない。

エコロジーの基本的な問題は、中央集権的な国家の政策と専門家による技術的解決に頼ることでは解決しない。それは、すべての人間の問題であり、それぞれの人間が生活している具体的な場所、個々の家庭と地域の共同体の問題である。

(C)エコロジーの技術論(eco-technology)

 近代人の生きる環境は、単なる自然環境ではなく、技術によって複雑に媒介された技術環境でもある。それ故に、近代技術の本性に関する哲学的批判を欠いたエコロジーはあり得ない。

(a)近代技術の危険性

(1)近代技術は与えられた目的を達成するための単なる手段にとどまるものではない。他のいっさいの価値に対して中立的であることが、逆に技術の発達を自己目的とするという意味で、技術の価値に対する盲目的信仰を生む。それは根元的な「存在」の呼びかけを聞こえなくさせ、「存在」に対する人間の応答を遮る。人は自分が本来何であるかを、自分自身の本質を考えなくなる。
(2)近代技術の根本的特徴は自然支配のエートスであり、それによって帰結するものは、人間の土着性の喪失とコスモロジーの不在であり、価値の選択に対するニヒリズムである。人々は圧倒的な技術知を前にして、それを使って達成すべき目標については無関心になる。独走した技術知を手段とする目的知が後から模索されると言う転倒した事態がしばしば生じる。
(3)近代技術は使い方を誤れば人間にとって危険であるという以前に、それ自身が人間存在にとって危険であるといわなければならない。なぜなら、近代技術によって暴かれた「真理」はあまりにも暴力的であって、地球環境に守られた人間が対処しうる限界を超えており、しばしば、人間には予測不可能な破局をもたらすからである。

(b)エコロジー的技術の可能性

(1)技術の使用はある意味で文明の成立にとって不可欠である。従って産業革命(エネルギー革命)以後の近代技術のあり方を批判することは、直ちに文明そのものを否定し、未開の自然状態に回帰することではない。我々にとって必要なのは生態学的破局を導かぬ文明の理念である。
(2)エコロジー的技術の指導理念は、低エントロピー技術の開発と、維持可能な発展である。それは、自然に内在する不可逆過程を正しく認識することから出発する。自然科学におけるエントロピー増大の法則は、もっとも普遍的かつ根源的な法則であり、有限な人間存在のいっさいの活動を制約する基本原理である。この法則によれば、作為と操作の自由度を増加することに立脚する近代文明の成立は、自然環境の無秩序を必然的に増大させるという代償を必ず払う。自然環境に内蔵されたエネルギーの搾取によって成り立つ近代文明の進歩は、地球環境のエントロピーの増加を伴うが故に、無限に続くことはあり得ず、必ず生態学的破局をもたらす。
(3)それ故に、エネルギー資源の一方的搾取をやめ、技術の操作/作為可能性をできる限り減少させ、地球環境の許容する自然の創造性のサイクルに人間の作為的な活動の法を合致させなければならない。

(c)エコロジーの哲学と宗教

 機械文明の危険性を熟知しながら未開の自然へと回帰して文明の進歩を拒絶する立場を最終的な解決とはみなさずに、むしろ機械文明そのものを拒絶せずに、「無為自然」の立場に置いてそのような文明を積極的に受容すべきことを説いた大乗的タオイスト(荘子)と、エックハルト的な「放下」によって技術の時代に対処すべき方法を示唆したハイデッガー、「平安(peace)」をもって文明の基本的ヴィジョンとしたホワイトヘッドの言葉が参考となろう。

(「荘子」外篇第十二:天地篇)孔子の弟子の子貢が漢水の南を通りかかったとき、非常に苦労して畑に水を注いでいる老人をみて声をかけて言った。「水を汲むには羽釣瓶という便利な機械があって、そんなに苦労しなくとも多くの水を汲み出せますよ。」 するとその老人は次のように言ったという。

機械を有するものは必ず機事あり。機事あるものは必ず機心あり。機心胸中に存すれば、すなわち純白備わらず、純白備わらざれば、すなわち神生定まらず、神生定まらざるものは、道の載せざるところなり。吾知ざるにはあらず、羞じて為さざるなりと。

ここには、無為自然を尊び機械文明を忌避するタオイストの立場が現れている。「機」という言葉が、道具とそれを使う人間の仕事、人間の心のあり方のすべてを表すのに用いられ、神秘的な生命の働きと「道」に従って生きる道教の教えから人を遠ざけるものとして描かれている。機械文明の「組立(Ge-stell)」が「存在の神秘(Geheimnis)」を忘却させるというハイデッガーの言葉と共に、これは技術信仰のラディカルな批判である。
 
 荘子はさらに続けて、このような無為自然の立場をさらに徹底すれば、機械や外界での積極的活動を、ことさらに避けることもなく、人為を捨てた素朴な心に帰り、自然のままの性質を抱きながら、しかも世俗の世界に遊ぶことになるだろうと述べている。

其れ明白にして素に入り、無為にして朴に復り、性を体し神を抱き、もって世俗の世界に遊ぶものは、汝、まさにもとより驚かんとするか。かつ混沌氏の術は、予と汝と。何ぞ以て之を識るに足らんや。

これは、「放下」におけるハイデッガーの次のような結論に呼応している。

ものへの関わりにおける放下と、神秘に向かっての開けとは、相依相続している。この二つの態度は我々に、技術世界の内部にあってしかもその世界によって害されることなく立ち、そして存続しうる新しい根底と地盤を約束している。・・・・・・
「事物をして存在するにまかせる(das Sein-lassen des Seienden)」とは、等閑に付するとか無頓着であるということを意味するのではなく、むしろその反対を意味する・・・「存在するにまかせる」とは、存在する事物が開示する開かれた場所に立ち入り、そこにおいて自らを事物に関入させること(das Sicheinlassen auf das Seiende)を意味する。

 ホワイトヘッドは、破壊的な騒々しさを沈静し、文明につきまとうエゴイズムを文明の理念から排除する<調和の調和>を<平安>と呼ぶ。<平安>を欠けば、科学の真理探究も、技術者/芸術家の制作活動も、仮借のない残酷なものとなって、真の意味での文明の名に値しないであろう(「観念の冒険」第20章)。平安は、未来に対する楽天的な希望でも、現在の細部に対する興味でもなく、目的の制御を越えた賜である。それは、文明の進歩に必然的に伴う悲劇的結果を理解する能力であり、人間中心主義を越えることを伴う相対的な諸価値の逆転である。

米国の仏教学者の F. Cook は、曹洞宗の居士として僧堂で修行をした経験もある人であるが、大乗仏教の華厳哲学に関する学問的な著作の序文のなかで、華厳仏教の精神に従って生きると言うことが、我々の日常生活の中で何を意味するかを示すために、禅の老師によって語られたという次のようなエピソードを載せている。

朝の勤行の後で、寺院の外の溝の中に、私の使った箸が落ちているのを見つけた老師が私を呼んでこう言った、「この箸はいったいどうしたのですか。もう使えなくなったのですか。」「まだ使えます」と私は答えた。 「これは、他の塵芥と一緒に溝に落ちていたのですよ。あなたは、この箸の命を奪ったのです。他人を殺すものは墓を二つ掘ることになると言います。あなたは、この箸を殺したから、この箸に殺されることになるでしょう」、この様に言って、老師は、溝に落ちていた箸をもとに、四、五時間かけて、修行とは何かを教えてくれた。その教えは私の骨身にしみた。そのときから、私は何事もおろそかにせず、綿密な日常生活の修行を心がけるようになった。

Cook 氏の引用しているエピソードは、資源の浪費による生態学的危機に見舞われている、現代人の生き方に警鐘を鳴らすものであろう。日常我々がそれによって食事をしている「箸を捨てる」ことが、箸に「殺される」ことになるという感覚は、禅の寺院で修行している人に限らず、近代以前の日本人ならば、深層の意識の中に持ち続けていたものである。それは、我々は、自分一人で生きているのではなく、他者によって生かされているという感覚である。そしてこの他者の範囲は、人間のみならず、生命あるものもないものも、人間に関わりを持つすべてのものにおよぶのである。嘗ての、日本人は、たとえ、それが道具的なものであっても、人間に対するのと同じ様な感謝の念を持って接し、たとえ用済みになってしまっても、「針供養」の様な儀式をしなければ気が済まないと言う感覚を持っていたのである。この感覚は、大多数の日本人にとって過去のものとなってしまっている。近代化の代償として、西欧の先進諸国以上に、自然に対する謙虚さを失ったのが現代の平均的な日本人であるとすれば、「箸を殺すものは箸に殺されるだろう」という禅の老師の公案は、現代に生きる我々自身に向けられていると言ってよかろう。